2008年9月30日火曜日

小泉元首相と加藤の乱

小泉純一郎元首相。
首相になれたのは
国民的人気だけではない。

直前に
造反を食い止め、
党内での株を上げたことも
おおきい。

やはり大物は
状況判断がうまい。
さすがです。

そんな
2000年の
「加藤の乱」です。


以下、
「加藤の乱」
についてのウィキペディアの記事です。


加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月に第2次森内閣打倒を目指して与党・自由民主党の加藤紘一・山崎拓らが起こした一連の政治行動。別名は加藤政局・YK革命。
党幹事長の野中広務による党内引き締めにより、加藤の意図は失敗したが、翌年春の自民党総裁選での小泉当選への布石となった。

遠因

派閥を継承し、総裁候補としての実績を着々とあげつつあった加藤と山崎。総裁候補の登竜門として、総裁選に出馬するも、事前予想通り現職総裁の小渕恵三に敗れた。が、あくまでも登竜門のつもりだった加藤・山崎であったのに対し、無投票での再任を願っていた小渕は2人の総裁選出馬自体に激怒した。事前予想では橋本派を中心に結束した小渕陣営が圧倒的に有利で、総裁選は形式的なものにすぎない状況であったが、ここで加藤が小渕に政策論争を挑んだこと自体が小渕の逆鱗に触れた。温厚な人柄で通っていた小渕だが、この後の加藤・山崎への対応は激烈を極めた。「あいつは俺を追い落とそうとした」と加藤・山崎派を徹底的に干していく。非主流が干されることは政争の常であるが、小渕の対応はその範疇を越えていた。小選挙区制導入により、徐々に執行部の権力が強くなっており、非主流派の立場は一層厳しいものとなった。当時の加藤は改革派のイメージが強く(小渕と財政に関して決定的に政策主張が違っていた。財政健全派や市場主義派に支持されていた)、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していた。また党内でも保守本流の宏池会会長で党内第二派閥の領袖、「YKKの長男」として総裁候補一番手と認識されていた。しかし、非主流派で干され続け、活路が見出せない中、小渕が倒れ、五人組という不透明な形で森総理が誕生する。順番的に遅れをとり、焦りが極まる中、森政権の不人気がピークに達していた。国民の支持が低い森内閣のままで2001年参院選に突入すると自民党が惨敗することが予想され、自民党が敗北した1998年参院選での非改選議員と合わせて与党が参議院過半数割れも懸念されていた。一時は執行部も加藤・山崎を主流派に取り込もうとし、森首相は前回の改造人事での加藤派・山崎派の要望だった小里貞利の総務会長起用や保岡興治の閣僚入りを実現させたが、森との経済・財政政策が決定的に違う加藤にとっては、それは自らの人気を下げる行為にしかならず、森とは距離を置いていた。
山崎は、政界入り後から加藤の盟友であり、政権構想もあくまでも加藤との連携が大前提であり、先に加藤、次に山崎という考えであり、とことん加藤について行くつもりであった。また、当時の状況では、ますますその道しか打開策がなかった。


小泉純一郎

加藤、山崎拓とともに「YKK」と呼ばれていた小泉は、森首相の出身派閥である森派の会長に就いていた立場から、また今後の権力闘争のことを念頭に置き、不信任案に反対した。 一部メディア・TBSテレビの報道番組「ブロードキャスター」は、小泉が森派の一部とともに離党し加藤と合流するケースを報道していたが、現実味は薄かった。
小泉は、衆議院本会議場でこの件について相談を加藤から受けている。その中で小泉は「俺ならもっと早くやっている」と語っており、加藤は小泉の支持(少なくとも個人的支持)は得たと解釈した向きがあった。評論家たちとの夜の会合の後に、マスコミが「加藤決起か!?」と伝えた際に、YKKの仲の小泉が本人に確認し「加藤は本気だ」と述べたところから、加藤の決起が本物だということが一気に認知された。

「政策の小泉から、政局の小泉になる」と宣言した小泉は、加藤が本気だと知るや、マスコミや野中ら党内実力者に「加藤が不信任案に賛成する」と積極的に情報を流し、政策的に対立してきた野中ら党内実力者と連携して、加藤派や山崎派、加藤に近い若手らを説得する役割に回った。こうした姿勢は、党内で「小泉はぶれない」と高く評価され、情報を流し説得工作の時間を稼いだ、その政局眼にも評価する声が挙がった。
乱後にYKKが初めて同席したパーティーで、小泉が「YKKは友情と打算の二重構造」と発言したことが注目を浴びた。笑顔で発言した小泉と、苦渋の表情で発言を聞いた加藤・山崎との表情の対比も視聴者に印象を残した。
加藤に同調しなかったことで党内での影響力を維持することに成功した小泉は、翌年に首相の座を手に入れた。


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